講演会
「退屈の政治性ーデス・ストランディングにおける遊びを手がかりに」
・講師:マーティン・ロート
2022年1月17日 総人棟1B05/Zoom(15:00-16:30)
【発表要旨】
デジタルゲームは、過去・現在・未来の共同生活を表現・想像し、プレイヤーに参加を呼びかける意味において、政治的な空間を構築している。しかし、その空間が現代に対する批判的空間、あるいは将来に向けてオルターナティブを提案する空間として機能するかどうかという点については、ゲーム研究者の評価は分かれる。本発表では、デス・ストランディング(Sony/Kojima Productions 2019)という具体的な作品が、その空間を遊ぶ経験がプレイヤーにどのような問題提起を突きつけ、如何に共同生活を考えるきっかけを与えるかを考察する。とりわけ、「エステティックな世界」の中での不安定なアバターの体験を始め、デス・ストランディングが含むアンビバレントな経験を手がかりに、当ゲームにおける日常、ゲーム、遊びの関係を考えたい。その果てにあるのは、ゲームにおける退屈の政治的可能性かもしれない。
報告:藤原萌
2022年1月17日、立命館大学先端総合学術研究科のマーティン・ロート准教授を講師に迎え、「退屈の政治性ーデス・ストランディングにおける遊びを手がかりに」の題で講演会を開催した。対面とZoomによるハイブリッド形式で、合わせて15名ほどが参加し、約1時間の講演と30分の質疑応答がおこなわれた。
ロート氏の専門はゲーム研究で、デジタルゲーム(ビデオゲーム)におけるメディア表現を、理論だけでなく実践的な遊びを通して批判的に分析している。今回の講演では、ゲーム作品『デス・ストランディング』(Sony/Kojima Productions 2019)を例とし、ゲームのプレイ体験、特にプレイヤーの「退屈」に焦点を当てて議論がおこなわれた。
まず、ゲーム研究が専門でない、もしくはゲームで遊ぶという経験に親しみのない参加者も多いということで、ロート氏からアナログゲームを含めた遊びにおける基本的な制度や行為の紹介を通して遊びの政治性についての説明がなされた。この中でアドルノの葛藤(コンフリクト)の概念が示され、ゲーム中で解決されない問題が突き付けられた際に生まれる、プレイヤーの自立した想像力の重要性への言及があった。この、主体となるプレイヤーの想像力が、講演の大きなテーマである『デス・ストランディング』における退屈の議論に繋がっていく。
『デス・ストランディング』の分析については、最初にゲーム作品全体の簡単な説明の後、ゲームプレイの様子や場面写真を挟みながら、具体的な分析がなされた。本作品では様々な側面で「不安定」なものが表現されており、それは先行研究によっても示されているが、この不安定なものを可視化するのがプレイヤーである。またひたすら歩いて荷物を運ぶという行為に長時間を要する本作品は退屈だと思われる可能性も高いが、あえてその退屈さを享受しプレイを続けているのもプレイヤーである。このように、限られた時間の中で本作品をプレイすることを選び、ゲーム内では様々なタスクにとらわれつつそれらの効率化や管理を行う現実世界の日常に似た行為を行うプレイヤーを通して、『デス・ストランディング』をゲーム的なものと非ゲーム的なものの両方を含む作品として考えることができるのではないか、という結論が示された。
質疑応答では『デス・ストランディング』におけるプレイ中の視点に関する質問、「不安定」なものとして講演中には指摘されなかったBB(道具として使われている胎児のキャラクター)についての質問、ゲームをする時間という新自由主義的な時間についての質問、現代社会における退屈な時間の埋め方についての質問など、様々な角度からの質問がなされ、講演での議論が深められた。
本研究室は2021年にそれまでの動態映画文化論から「映画メディア合同研究室」と名称を改めており、それに伴って所属学生の研究分野もさらに多様化しつつある。今回の講演はデジタルゲーム研究に関するものであったが、本コロキアムでは今後も映画研究者だけではなく、様々な分野の研究者を迎え、講演会を行っていく予定である。